プロフィール
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野村政良
●大正 2(1913)年 11月15日藤田次平・ミチヨの三男として松山市湊町で生まれる。本名 正義
●昭和 6(1931)年 18歳 旧制松山商業卒業
●昭和 8(1933)年 20歳 加藤松林人に師事し日本画を学ぶ。
●昭和18(1943)年 30歳 野村榮太郎・ユキエの養女千代と結婚し野村姓となる。
●昭和22(1947)年 34歳 愛媛美術工芸展で美術協会賞を受賞。四国観光展で知事賞を受賞。以後県内外の美術展で受賞相次ぐ。
●昭和23(1948)年 35歳 石井南放氏らと愛媛日本画研究会、そして昭和26年に彩兆会を結成する。
●昭和27(1952)年 39歳 県美術会日本画部審査員に推挙される。
●昭和35(1960)年 47歳 日本画グループ「ささゆり会」を結成する。創造美術会員となる。
●昭和44(1969)年 56歳 公立学校教員を定年退職する。久万町(現久万高原町)より地域の文化向上に努めたとして特別功労者表彰を受ける。
●昭和50(1975)年 62歳 愛媛の101人展に「古岩屋」を出品する。
●昭和52(1977)年 64歳 久万町「ふるさと村」辻堂天井画100枚の制作をささゆり会に依頼され、会員の指導と制作にあたる。
●昭和57(1982)年 69歳 NHKで「ささゆり会」が取材される。この頃墨絵を手がける。
●昭和57(1984)年 71歳 妻千代死去。テレビ愛媛「えひめ人 その風土」取材・放映される。
●昭和62(1987)年 74歳 プランタン画廊にて主に中国に取材した作品を中心に個展開催する。
●昭和63(1988)年 75歳 愛媛新聞社「雑誌えひめ」の「”史談”十八史略」の挿し絵を12回にわたって描く。上浮穴産業文化会館のホール緞帳図「萬緑蘇る」について構想を練り、原画を制作する。
●平成 元(1989)年 76歳 郵政省発行ふるさと花切手の「みかんの花」原画作成する。
●平成 3(1991)年 78歳 石井南放氏死去に伴い愛媛日本画会会長を引き継ぐ。
●平成10(1998)年 85歳 11月15日満85歳の誕生日に死去
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今年満70歳を迎える私は、長生きできたことを感謝している。
今の時代に70歳は長生きの部類に入らないかも知れないが、40数年前、戦場で絶えず死と対決しながら、
紙一重のところで生き延びた事を思い、眼前で倒れて行った多くの友達の事を思うと、
実感と
して敗戦後、自分自身を取り戻すに従い長生きできた事を痛感せずにはおれない。
それか
らの生活を無駄に生きてはならないという思いにかられてきた。
そして、自分にとって有
意義に生きるという事は、絵を描くことだと決心した。
本格的に絵を習いはじめたのは20歳からであったが、それまでは、ただ描かずにはおれ
ないから趣味として描いてきたというに過ぎない。
だが、生死の竿頭に立たされ、運命の
導きによって生還してきた今、自分には残された仕事があるんだと思うようになった。
仕事といっても学歴は無し、能力も乏しい自分にとって、やれそうな事といえば絵を描く
こと以外には無いと思ったのである。
と言っても当時絵描きになるほどの自信は無いし、
絵の才能に特別恵まれているとも思っていなかった。
ただ、それまでに読書を通して、純
粋に生きる道として、芸術へのあこがれは持っていた。
その思いがこの道を選ぶもう一つ
の原因であったのかも知れない。
間もなく迎えた敗戦、引揚げの混乱生活はあったが、意外にも早く絵の道に復帰するこ
とができた。
藤井周一先生の懇請に応じて久万中学校の美術教師として迎えられ、久万に
永住するようになった今日まで、
自分に課せられた道として絵を描き続けている。
だから私は絵を描くことを職業とは思っていない。
職業は生活の支えであって、転々とし
てきたが、絵は私にとって生きることのすべてであり、私から絵を取り上げるということ
は、命を奪うことである。
美術教師として久万中学校に20年、上浮穴高校に8年を過ご
してきたが、
この間美術教育とは生きる事への自信と喜びを子どもながらに感得させる事
であるという信念に基いて実施してきた。
また町内の百名ばかりの有志に指導してきたさ
さゆり会を通しての絵画教室でも、その信念に変わりはなかった。
顧みて、その効果は微
々たるものであり、私自身の画業すら日暮れて道遠しの感があるが、
自分なりに戦前、戦
後を通して精一杯生きてきたという満足感はある。
私は、今一人の貧しい画家として残り少ない人生をとぼとぼと歩んでいる。
七十年の生
涯を振り返って自慢することも後悔することもない。時のまにまに生きてきたように思う。
少年時代は松山の三番町で過ごした。父は、文人画家で赤貧洗うが如き生活をしていたが、
子供心に貧乏を意識して引け目を感ずるようなことはなかった。
少年時代は今思い出して
も楽しかったように思う。ただ、母は家計のやりくりに苦労していた。
だから小学校を卒
業したらすぐ働きに行ってもよいと自分では思っていたが、
母は何とかして中学校程度ま
では進学させてやりたいと思っていたようだ。
父は風雅を愛し脱俗的な生き方を善しとしていた。陋屋(ろうおく)を訪れる人々の中に
は社会的に高い地位の人々がいた事を子供心に誇りに思っていた。
松山商業を選んで入学を許してくれたのは、子どもの将来に、まず生活の安定を願っての母の期待に基くものであった。
松商に通っているうちに、私は父の生活態度に疑問を感じるようになり、
貧乏と戦うみじ
めな母の苦労を思うたびに自分は将来絵描きなどには、間違ってもなるまいと思った。
松商を卒業した昭和6年という年は、世界的な大不況のどん底であった。
ほとんど確定し
ていた銀行への就職が駄目になって、親戚を頼って朝鮮に渡り、つてを求めて就職した。
就職して1年ほどたった頃、あれほど絵描きを忌避していたにもかかわらず、
忽然と絵を
画きたいという願望が芽を吹いてきて、見よう見まねで自己流の絵を画くようになった。
勿論余暇を利用しての遊びににたものであったが、そんな様子を見た親戚の者が
「絵が画
きたいのなら近所に絵描きさんがいるから紹介してあげる。」と言って、つれていってく
れた。
加藤松林という朝鮮では一流の作家で、私にとっては生涯の師となった画家であっ
た。
三つ子の魂百までと言うが、父親の生活状態が血脈を通して身体の奥深く浸透していたの
であろう。
その翌年朝鮮総督府主催の美術展に入選して、以後敗戦の年まで出品を続けた。
野村政良画集







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野村融
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●昭和25(1950)年0歳 7月18日野村正義・千代の長男として愛媛県久万町(現久万高原町)で生まれる。
●昭和44(1969)年19歳 九州産業大学芸術学部入学油絵を初めて描く。
●昭和48(1973)年23歳 大学卒業愛媛県公立学校教員となる。
●昭和52(1977)年27歳 愛媛県教職員美術展にて版画「Night Story」推奨となる。
●昭和53(1978)年28歳 4月桝井綾子と結婚する。
●昭和54(1979)年29歳 8月長男誕生する。
●昭和58(1983)年33歳 9月長女誕生する。
●平成元(1989)年39歳 町の郵便局ロビーで個展「20年展」行う。
●平成2(1990)年40歳 愛媛県教職員美術展にて油彩「リエカ風景」推奨となる。
●平成16(2004) 年54歳 地域を描く絵画展(中島町を描く)にて「島の春」奨励賞となる。
●平成23(2011)年61歳 3月公立学校教員を定年退職する。
●平成28(2016)年66歳 愛媛県秋季県展にて油彩「石」特選となる。
●令和4(2022)年72歳 愛媛県美術館特別展示室1にて個展「近景拝借」行う。
●令和5(2023)年73歳 愛媛県美術館特別展示室1にて個展「幻視紀行」行う。
●令和6(2024)年74歳 愛媛県美術館特別展示室1にて個展「海」行う。
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